
矢吹透
1971年、父は留学先のシンガポールの南洋大学から、香港大学へと転学し、我が家はシンガポールから香港へ移る。
キャセイ・パシフィック航空の便で、僕ら一家は、啓徳空港へと降り立った。
現在は既にクローズされた啓徳空港への着陸は、とてもスリリングだった。
面積の狭い香港の土地をぎりぎりに使って作られた啓徳空港は、市街地に接近しており、飛行機は、建ち並ぶビル群のすれすれを飛び、滑走路へと突入する。
浅草の花やしき遊園地のジェット・コースターをイメージすると、なんとなく雰囲気がわかって頂けるかもしれない。
啓徳空港の到着ロビーに入った瞬間に、6歳の僕は、立ちこめる香港の匂いに包まれた。
中華街の市場に入り込んだ時に嗅ぐような、にんにくや八角や、さまざまなエキゾチックなスパイスが入り混じったような香りである。
僕は、この匂いに生理的な違和感を覚え、それから続く一年間の香港生活の間中、苦しめられることになった。
空港を出て、市街へ入ると、香港の匂いは更にその猥雑さを増す。
生ゴミや小便や腐乳の匂いが入り混じり、強烈なアジアのダウンタウンの香りとなってそこら中に漂い、幼い僕を怯ませた。
街を行く人々の話す広東語の響きも、強烈だった。
父は、北京語を専門としていたので、僕の耳は北京語に慣れていた。
奔流のように耳に流れ込んで来る広東語は、北京語に比べると、とてもパンチを持って、聞こえた。
短い音節で、叩きつけるように、人々は話す。
まるで喧嘩をしているような言葉だと、子供心に僕は思った。
空港を出て、ホテルにチェック・インし、その日から、我々の香港での住居が決まるまで、ホテル暮らしが始まった。
ホテルで暮らすということは、食事がすべて外食だということである。
ホテルの食事は高価で、バリエーションも少ない。冒険心とバイタリティに溢れる父は、僕らを街中の飲茶店や屋台へと連れ出した。
大人になった今、僕が父と同じ立場だったら、きっと同じことをするだろうと思う。
ホテルで、高額で退屈なイングリッシュ・ブレックファストを食べるよりも、屋台の朝粥でも食べに行こう、と家族や連れに多分、言う。その方が安くて美味しいものが食べられて、数倍楽しい。そして、それが、香港にいるということの醍醐味である。
生憎、僕は、中華の香辛料や香辛野菜の類いが苦手だった。
にんにくや香菜、八角などをまったく使っていない料理を、香港の街中で探すことは、なかなか難しい。
余談になるが、現在の僕は、にんにくも香菜も、中華の香辛料なども皆、大好きである。食べ物の好き嫌いといったものはまったくない。
思春期を過ぎた頃だろうか、幼い頃に苦手だったエキゾチックな食材が、まったく抵抗なく、食べられるようになっている自分に気づくことになった。
今の僕が、おそらく、大抵の日本の人よりは、食に関しての許容度が高いのは、幼い日々に東南アジアで経験した雑食の日々がベースにあるためではないかと思う。
6歳の僕に食べることのできた、数少ない現地の料理は、北京ダックと炸醤麺(じゃーじゃーめん)だった。
確かに、両方、にんにくや香味野菜、香辛料の類いがあまり入っていない。そして、甘い甜麺醤が味のベースとなっている。
何が食べたい?、と問われると、僕は必ず、北京ダック、と答え、両親を苦笑させた。
当時の香港に於いても、北京ダックは高級料理で、安価なものではなかった。屋台で注文出来るような料理ではなかったし、いつでもおいそれと子供を食べに連れて行くことの出来るようなものでもなかった。
香港で、僕ら一家は、当時、日本から出店していた、大丸デパートのビルの上層階の賃貸アパートに暮らしていた。
メイド部屋まであったシンガポールの家とは大きく異なる、狭いアパートだった。
小さなエレベータの重い鎧戸を、手動でがちゃっと開けて乗り込み、自分の階に着くと、また自分でその扉を開けて、降りるというような作りだった。
エレベータには、いろいろな部屋から漂って来る、オリエンタルなお香の匂いが立ちこめていたことを、今でも覚えている。
シンガポールで現地幼稚園に通園し、苦しんだ僕は、香港に渡り、学齢に達したため、日本人学校へと入学した。
僕は、香港日本人学校の小学一年生のクラスに、新入学したわけである。
日本語でコミュニケーションを取れる同級生と席を並べ、自分の理解できる日本語で授業を受けることが、僕はただただうれしかった。
遠足でヴィクトリア・ピーク(太平山)に登り、途中の小川でグッピーを捕って、持ち帰り、育てたことなどを覚えている。
シンガポールに比べ、学校は楽しかったが、香港の猥雑な街の雰囲気や現地の食事には、最後まで馴染むことは出来なかった。
シンガポールでの辛い通園生活、そして香港での街や食事への不適応などについて、幼い僕は、そんな試練の日々を自分に与えたのは、父の責任であると、父を恨み、憎んだ。
父はきっと、そんな脆弱で内気な息子のことを持て余したに違いない。
2歳違いの姉は、香港での食事や生活に、問題なく適応していた。
父と僕が、仲良く酒を汲み交わしたりする友好な関係になったのは、僕が大人になり、独り立ちをしてから、後のことだ。
今回、添えた写真は、1972年10月に撮影された、香港日本人学校の運動会での一枚である。
フォークダンスを踊る僕の痩せ衰えた姿に驚く。
当時の僕の拒食や環境への不適応を如実に物語っている写真といえよう。
シンガポールと香港で幼い日々を過ごした経験を、有り難いものとして僕が捉えることができるようになるまでには、数十年を要することとなった。
長い間、東南アジアで過ごした二年間については、僕の中で黒歴史であった。
香港での生活を終える頃、幼い僕は片言の中国語を話したと両親は言う。家にかかって来た電話に出て、パパは今、外出中です、などと中国語で受け答えをしていたそうだ。
その中国語の能力を、その後、ブラッシュ・アップして行く努力を続けていたら、今の自分には中国語を話すことが出来たのではないか、と僕は時々、後悔と共に思う。
生憎、僕は、アンチ東南アジア、アンチ中国文化の頑なな心を抱いた少年として、日本へと帰国することとなった。
<つづく>
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February 05, 2020 at 04:00AM
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