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【連載小説】この美しい島を、私たちの終の棲家にできたなら――。 深沢潮「翡翠色の海へうたう」#3-1 - カドブン

深沢潮「翡翠色の海へうたう」

※本記事は連載小説です。



前回のあらすじ

小説家志望の私は、なかなかデビューできないことへの焦りを抱えていた。そんな中、勝負作として沖縄戦と慰安婦の物語を書くことを思い立ち、取材のために沖縄へ飛ぶ。島に辿り着いた私は、かつて女性たちが暮らした赤瓦の建物を前に思いを馳せていた。/前線を離れ、ほかの女性たちとともに、南方の島へと送られたわたし。兵士たちの相手をする日々は変わらず、わたしは故郷への思慕の念を抱いていたが⋯⋯。

 正月を迎え、わたしとミハルは、コガ隊長の宴席に呼ばれた。そこには隊長のほかに二人の将校がいた。
 瓦屋で飼っている豚を一頭つぶして、食卓はいつもより豪華だった。新しい年となり、いくらめでたいとはいえ、品数の多い料理とふんだんな酒を前ににぎやかに談笑する彼らからは、いまが戦時中だという緊張感は見られない。大陸の前線での殺気立った空気とは大違いだ。船が着いた島で見た壊された建物とそのがれき、銃弾によってできた大小の穴は、幻だったのだろうか、とすら思えてくる。
 敵の姿を見ることなくこのままここでときが過ぎてくれないだろうか。そしていつの間にかこの国が勝ち、戦争が終わってほしい。そうすれば男たちからじゆうりんされることもなくなるのではないか。故郷に帰れるのではないか。そんな望みを抱きそうになる。
 だが、隣に座るコガ隊長に肩をつかまれて引き寄せられ、着物の上からからだをまさぐられると、望みはたちまち泡のようにぶくぶくとはじけて消えていく。あらがうことはかなわず、なすがままにされていると、故郷に戻ったところで、さんざん男たちに汚された自分が両親や弟の前に姿を現すことなんてできるはずがないことを、あらためて思い知らされる。
 コガ隊長のしつようでいやらしい手の動きが、故郷への思慕を損なっていく。わたしはあらゆる感情の扉を閉じた。すると魂はからだからすっぽりと抜け出し、男に弄ばれる自分をまるで他人を見るかのように遠くから眺めていた。
 ふと、手の動きを止めたコガ隊長が顔を近づけてきた。のふちが赤く染まっている。
「コハル、このあいだ教えた歌をうたってみろ」
 酒臭い息を吐きながら命じてくるが、からだだけのわたしは、考えることができない。どんな歌だったかなんてもちろん覚えていない。
 黙っていると、コガ隊長が、早くしろ、と顎をしゃくった。
「うた、わからない、めんなさい」
 恐る恐る答えると、コガ隊長ではなく、膳をはさんでわたしの前に座っていた男が、「わからないとはなにごとだっ」と怒鳴って立ち上がった。コマチの髪を切ったという、峠で見かけた男だ。ニシヤマという名前だった。
 ミハルはヤマダという将校に酌をしていたが、かたい表情で酒を器からこぼしてしまっている。
 しんとしずまりかえるなか、わたしは、すみません、すみません、と両手をこすり合わせて頭を下げる。恐ろしさで、声がうわずっていた。魂が、感情が、いやおうなく戻ってきていた。
「まあ、まあ、落ち着け。酒の席だ、そういきりたつな」
 コガ隊長はニシヤマをいさめると、わたしの肩をぽんぽんとたたいた。
「なんでもいい。おまえの知っている歌をうたってみろ」
 いつになく優しい声だ。
 そう言われても、まさかここで故郷のことばでうたうわけにはいかないだろう。内地の歌など、わたしはひとつも覚えていない。
「隊長、わたしがうたいます。ヤマトナデシコになるなら、うたえないと」
 ミハルが言うと、隊長は、おおそうか、とうなずいた。
「それじゃあ、ひとつよろしくたのむ。せっかくだから、立ってうたえ」
 はいわかりました、とミハルは立ち上がる。そして、すうっと息を吸って、うたい始める。

 うみゆかば みづく かばね
 やまゆかば くさむす かばね
 おおきみの へにこそしなめ
 かえりみはせじ

 ミハルの声はよくとおり、男たちは、満足そうな顔で聞いている。歌が終わると、コガ隊長が、いいぞ、と拍手し、みながそれに倣った。わたしも仕方なく手を叩く。
「そうそう、それだ、ミハル。いい声だな。もっとうたえ」
 コガ隊長が機嫌よく言った。
「はい」
 答えたものの、ミハルは、すぐに歌が出てこないようだった。眉間にわずかにしわを寄せ、黙ってたたずんでいる。ほかに内地の歌を知らないのかもしれない。
「なんだ、興ざめじゃないかっ。なにがヤマトナデシコだっ」
 ニシヤマの声に、ミハルはびくっとからだを震わせた。
 それまで黙っていたヤマダが、隊長、と口をひらいた。
「自分は、ミハルが朝鮮の歌をうたったのを聞いたことがあります。とてもいい曲調の歌でした。それをうたわせたらどうでしょう。コハルもいっしょに」
「そうだな、悪くないな」
「隊長、朝鮮の歌ですよ。いいんですかっ」
 ニシヤマが気色ばんだ。
「まあ、正月でめでたいし、大目に見てやろう」
 そう言うと、わたしに顔を寄せてきて、「おまえの歌声も聞きたいしな」とつぶやいた。
「それじゃあ、ふたりで並びなさい。ほら、コハルも立って」
 わたしはヤマダに促されてミハルと横並びになり、コガ隊長の正面に立った。ミハルが、いつもの歌をうたおう、とささやく。わたしはうなずいて、息を整える。
 ミハルの、せえの、という掛け声で、うたう。
 わたしたちの歌を聞きながら、満足そうに酒を飲むコガ隊長の顔を見ているのは、耐えられない。この歌をうたうことで故郷とつながり、壊れそうな心を保ってきたのに、なんだか、わたしの望郷のおもいが汚され、踏みにじられるようだ。
 ささやかな慰めとなる歌までも、男たちに奪われなければならないのか。
「いいぞ、続けろ」
 ヤマダが顔をほころばして言った。ニシヤマは渋い顔で、口をへの字にして腕を組んでいる。
 ミハルは、そのまま歌を続ける。わたしは隊長から目をそらし、胸の痛みを抱えながらも、ついていく。

아리랑 아리랑 아라리요
아리랑 고개로 넘어간다
청천하늘엔 별도 많고
우리네 가슴엔 꿈도 많다

아리랑 아리랑 아라리요
아리랑 고개로 넘어간다
저기 저 산이 백두산이라지
동지 섣달에도 꽃만 핀다

「なかなかいいじゃないか。もう一回うたえ。そうだ、うたいながら踊ってみろ」
 コガ隊長に言われるがまま、わたしたちはふたたびうたい、そして踊った。仲間の女たちと集ったときに興に乗って踊るのと違い、ミハルもわたしもぎこちない動きになってしまう。とくにわたしはまったく気持ちが入らず、ただ手足を適当に動かしたが、せめて目の前の男たちを見ずにいようと目を閉じた。そして、峠から望んだあおい海原を思い浮かべていた。

 宴席から三週間後、見習士官の少尉任官祝いを兼ねた、軍主催の演芸会が開かれることになった。そこでわたしは舞台に立つ予定だ。
「ミハルとふたりで、あの朝鮮の歌を日本語でうたえ」
 宴席でうたった歌を気に入り、コガ隊長が命じてきたのだった。
 歌詞は、コハナ姉さんが教えてくれたが、わたしはいとしい大切なこの歌を、内地のことばでうたいたくなかった。けれども、舞台に立たないわけにはいかない。うたわなければならない。
 わたしとミハルは、男たちの相手をする合間に必死に練習した。とはいえ心が抗っているせいか、なかなか歌詞を覚えられず、ミハルがそらんじられるようになっても、わたしはつまってしまうことが多かった。キクさんのほうがわたしより先に覚えてしまったくらいだ。
 それでも、練習をかさねるうちに、いつのまにか歌詞を口ずさめるようになった。着物にすっかり慣れ、軍服の男たちを見てもなにも感じなくなってしまっているわたしは、身も心も、どんどん故郷から離れていく。そして内地の言葉でうたうたびに、身を切られるような痛みに襲われる。
 いよいよ舞台に立つ前日、ミハルとわたしは食事のあと、明日着る予定の服に着替えて練習にのぞんだ。キクさんも、女たちとともに、わたしたちを見守っている。
 わたしは、着古した着物一枚と灰色のワンピースしか服を持っていなかったので、少しはましな灰色のワンピースを着た。ミハルも、くたびれた白いブラウスに、黒っぽいスカートといったいでたちだった。
 うたい終わると、女たちが、よくやった、とほめてくれた。ミハルと仲の悪いシノブが、あたしが出たかった、とぶつぶつ文句を言っていたが、コハル姉さんがなだめた。それから女たちは酒を飲んだり、たばこを吸ったりと、それぞれがくつろぎ始める。
 もう一度歌の練習をしようかとミハルと相談していると、キクさんがわたしたちのそばに来た。そして二枚の着物をそれぞれに差し出した。
「明日、これを着たらいいさ。わたしの着物だから、ちょっと小さいかもしれないね」
 わたしたちはすぐに着物を広げた。紺地に白のかすりがらで、ほとんど着ていないのか、まだ新しかった。いつも色あせたり擦り切れたりした着物を着ているキクさんにとって、これらがとても大事なものだということは、容易に想像できた。
「こんなにきれいな着物、いいの?」
 ミハルがくと、キクさんがこくんとうなずいた。
「晴れ着で舞台に立たないとね」
 微笑ほほえむキクさんの手をわたしは思わず握っていた。
「ありがとう。ほんとうにありがとう」
 ミハルも、「キクさん、助かった」と、手を重ねた。
 さっそくふたりとも着物を羽織ってみる。ちょっと丈が短いが、さまになっていた。なにより、キクさんの思いがうれしかった。この着物ならば、わたしの苦痛をやさしく覆ってくれそうだ。
「キクさん、待っていて」
 わたしは急いで自分の部屋に戻り、薄紙に包まれた星形の氷砂糖を持ってくると、それをキクさんに渡した。
「コンペイトウ!」
 キクさんはさっそくひとつを口に入れ、笑顔いっぱいになった。

 演芸会の舞台は、瓦屋のすぐ裏にある、国民学校の校庭に作られた。
 一月も終わりに近いが、よく晴れてあたたかい日だった。軍の男たちだけでなく、いつもは接することのない島の老若男女が大勢見物に来て、校庭は人で埋め尽くされている。
 わたしとミハルはキクさんから借りた着物に身を包み、舞台のそででふるえんばかりに緊張していた。島の人たちが見に来るとは思わなかったので、おびえてもいた。
 コガ隊長は、何を考えているのだろうか。わたしたちが、島の人たちの前に出ていっていいのだろうか。
 世話をしてくれるキクさんや中年女性をのぞいては、島の人たちに姿を見られてはいけないとスズキからいつもきつく言われていたのに。
 ここで出ていったら、島の人たちは、わたしたちをどんな風に思うのだろう。薄汚い女としてさげすんだ目で見るのだろうか。
 舞台に出るのが怖い。
 わたしはミハルと手を握り合い、息を詰める。ミハルの顔はすっかり色を失っている。
 挨拶や祝辞に続き、下士官による歌や演奏、寸劇、島の人たちによる踊りなど、出し物が続き、戦時中とは思えないほど明るい笑い声があたりに響く。
 あの歓声は、わたしたちが出た途端、なくなるのではないか。怒号に変わるのではないか。
 盛り上がれば盛り上がるほど、恐れは大きくなっていく。
 いよいよ、わたしとミハルの出番だ。からだがこわばり、足元がよろめいたが、ミハルが支えてくれた。ミハルは腹を決めたのか、わたしと違ってしっかりとした足取りだ。
 わたしたちが舞台にあがると、兵隊たちが口笛を吹き、やんややんやと声を出した。だが、島の人たちは、驚いて目を見開いたり、顔をしかめたりしている。珍しそうに見つめてくる子どもたちもいる。
 一瞬たじろいだが、ミハルと呼吸を合わせ、わたしは目の前の観衆にではなく、遠く建物ごしに見える海に向かってうたう。

 アリラン アリラン アラリヨ
 アリラン峠を越えてゆく
 わたしを捨てて 行かれる方は
 十里も行けずに 足が痛む

 アリラン アリラン アラリヨ
 アリラン峠を越えてゆく
 空には星が多すぎる
 わたしの暮らしにゃ 苦労が多い

 アリラン アリラン アラリヨ
 アリラン峠を越えてゆく
 実りの秋が近づいて
 豊年満作うれしいね

 アリラン アリラン アラリヨ
 アリラン峠を越えてゆく
 この世はすべてうたかたよ
 流れる水のように戻らない

 わたしとミハルが割れるような拍手喝采をうけた演芸会は、たった一ヶ月前のことだ。毎日がさして変わりなく過ぎていくので、ずいぶん前のことのように思える。
 日が高くなったころに起きてからだを洗って食事をとり、たまに浜辺や峠で散歩をして、うたう。また食事をし、夕方から夜にかけて穴にされ、夜食をとって眠る。金曜日に軍医が検診すれば、その日は休める。その繰り返しだ。
 演芸会以来、島の人たちと顔を合わせることはほとんどない。瓦屋にいる豚に餌をやりにくる女性をちらりと見かけることはある。また、建物の前でからだを洗っているときに少年にのぞかれることもあったし、浜辺や峠で目撃されることもあったが、そう頻繁ではなかった。わたしたちに近づかないように言われているとはいえ、島の人たちが拍手や喝采をくれたことを思い返すと、せきばくとした思いに沈んでしまう。
 しょせん、わたしたちは、慰みものでしかなく、人間らしいまじわりを望むことは許されないのだ。
 それでも、キクさんとだけは一緒にうたったり、冗談を言い合ったりして笑っている。
「もっと歌をおしえて」
 そう言われて、わたしたちは、キクさんの前で故郷のうたをもうひとつ披露した。きようの花の歌だ。

도라지 도라지 도라지
심심산천의 도라지
한두 뿌리만 캐어도
대바구니로 반실만 되누나
에헤요 에헤요 에헤애야
어여라난다 지화자 좋다
저기 저 산 밑에
도라지가 한들한들

 キクさんは、この歌も気に入って、わたしたちと一緒にたびたび口ずさんだ。こんなに親しくいられることが、嬉しくてたまらない。キクさんはわたしたちを、はけ口でも道具でもなく、ましてや穴でもなく、同じ人間で友達だと思ってくれているに違いない。

 この小さな島に来て三ヶ月が過ぎ、だいぶ肌寒くなってきた。故郷や大陸に比べればあたたかいが、それでも本格的な冬が来たことがわかる。目覚めはことに空気が冷たく感じられ、布団から出るのがおつくうだ。
 明け方、床についてまもなく、わたしはスズキに起こされた。眠い目をこすって起き上がると、荷物をまとめるように言われた。
「すぐにここを出るぞ」
 突然の移動である。大陸のときと同じだ。
 いったい次はどこに行かされるのだろう。
 ふさいだ気持ちで手持ちの荷物をまとめていると、キクさんに借りた着物をいまだ返していないことに気づいた。演芸会のあとも、コガ隊長から、「あの着物でうたうのが見たい」と言われ、幾度か袖を通した。だから、借りたままになっていたのだ。
 だが、直接手渡すことはできない。会うことなくここを去らなければならないのだ。
 キクさんに別れの挨拶もできないなんて。
 二度と会えないと思うと、朗らかなキクさんの笑顔が目に浮かぶ。
 この島でひととき味わったほのかな人間らしさも、あたたかいまじわりも、結局はこうして手放さなければならないのか。
 着物を手に取って、そっとでてから、畳の上に置く。そのままにして部屋を出ようとしたが、引き返し、思い直して風呂敷包みに着物を入れた。
 わたしたちは、真夜中に赤瓦の家を出て、スズキや兵隊たちとともに、船着き場に向かう。
 ここにもっといたかった。この美しい小さな島がつい場所すみかであってほしかった。
 わたしは船に乗る前に島の方を振り返り、月明かりにうっすらと照らされる山と集落のかたちを、瞳の奥に刻み付けた。

#3-2へつづく
◎第3回の全文は「カドブンノベル」2020年9月号でお楽しみいただけます。



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"美しい" - Google ニュース
October 07, 2020 at 05:06AM
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